アインシュタインは、色んな間違いをしています。
(2)(a)の“時刻の相対性”の所では、動いている棒のA端と静止系のA地点とを混同していました。
厳密に言えば、彼の論文には「静止系のA地点」という言葉すら有りません。
ただ単に「Aから光線が発射され、点Bで反射されて、Aに戻って来た」とあるだけです。
最初から区別をつけていないのですから、混同に気づき様のある筈が有りません。
実際に、彼の数式の意味を理解しようとすれば、静止系にA地点という場所を設定し、そこに観測者を
置かなければなりません。
そうして始めて意味が通るのですが、その時には、同時に、問題にも気づく事になります。
ところが頭の良い先生方は、そんな事をしなくても式を理解されますので、混同に気づくチャンスを
失います。
こういう事は、私の様に頭の悪い者が、自分の頭でも解かる様にと、式をかみ砕いて並べ直した時に、
初めて判る事です。
翻訳された先生は、“簡潔にして明瞭”とほめちぎっておられますが、その簡潔さこそが曲者だった
のです。
これだけ簡略化されていると、棒のA端と静止系のA地点とを混同していても、誰も気づきません。
新宿あたりで列車より光が発せられた所を、列車の中の人が目撃したとして、この人は、列車が池袋
に着いた時「光は池袋より発された」と言うでしょうか?
絶対に言わないでしょう。
にも関わらず、それを言わせているのが相対論なのです。
棒のA端と静止系のA地点とを混同するというのは、新宿と列車と池袋とを同じと見なすに等しい
行為です。
次の(2)(b)の「ローレンツ変換の誘導」の所では、アインシュタインはローレンツ変換を光の走行距離
と走行時間とから導き出していながら、出来上がったローレンツ変換の や
を任意の座標や任意の時刻
と勘違いしていました。
その事が相対論を奇想天外な方向へと導いて行った原因です。
これは、彼が「距離と座標」、「時間と時刻」を混同していたからそうなったと思われます。
次の(2)(c)「動いている物体は長さが縮む」の所では、光の球面波と剛体の球の式とを混同していま
した。
どちらも球の式ですから、式の形は似ています。だから混同はします。
しかしながら、両者は基本的に別物なのです。
球面波は時間と共に拡大しますが、剛体の球の径は時間では変動しません。
そこの所の違いに気づかず混同してしまうと、ある時は剛体の球の理屈で考え、ある時は球面波の理屈で
考え、両者の理屈が途中で入れ替わっても気がつかなくなります。その結果として
「 軸方向の寸法が縮む」との結論でも得れば、新発見でもしたかの様な気分になり有頂天になります。
本当は単に間違っているだけの話ですが。
それでも の項があると剛体の球が無限に拡大してしまうので、これでは不都合と
に0を入れて
の項を消去しようとします。ところが、そんな事をすると、“光が原点のなかに収束(
= 0 では
光はまだ発されていないから)し = 0,
= 0,
= 0,
= 0,
= 0 ,
= 0 となって
計算不能になる”事に気づいていません。
アインシュタインは、そんな事には無頓着だったのです。
(2)(d)の「時間の遅れ」の所では「S系での時刻」と「 系 の移動時間」の混同や
「S系に於ける光の到達点の 座標」と「S系
軸上に於ける
系 原点の位置」との混同を
していました。
「混同ではない。それが両立する所を求めているのだ」とした場合、
それは“ 系 の原点より
軸に垂直に発された光”についてのみ考える事となり、他の方向の光は
一切考慮されなくなりますので、そこより生まれるところの理論は普遍性を持たなくなります。
この様に相対論とは、あらゆる所に矛盾を含んでいる物だったのです。
これはアインシュタインが、思い込みや勘違い・似た物との混同で式を創ったから、こうなったので
しょう。
アインシュタインのやってる事は、数式だけを見ているとスゴいのですが、良くよく見てみると
出たらめなのです。
多くの先生方が、この間違いに気づかなかったのは、余りにも式が簡潔にまとめられていたからで
しょう。
ここまで来れば反証も完璧の様ですが、実は、まだ不十分なのです。
というのは、書店に並んでいる相対論の本では「同時性」や「ローレンツ収縮」・「時間の遅れ」
などを説明するのに「四次元時空」を使っているからです。
これでは、私が、いくら間違っていると言っても「お前の理屈は三次元の理屈だ、これは四次元
なのだから話にならん」と一蹴されかねません。
その四次元の理屈も本当は間違っているのですが、それを説明しない事には話は終わりません。
そこで次は「四次元時空論」の誤りについて説明する事にします。
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